親鸞聖人について

親鸞聖人(1173-1263)は、浄土真宗の開祖として、阿弥陀如来様の本願を明らかにされました。90年の生涯を通じて、すべての人が平等に救われる道を説き示された聖人の歩みをたどってみましょう。

幼少期から比叡山へ

親鸞聖人は、平安時代末期の承安3年(1173)、京都の日野に生まれました。幼くして父母と死別するという悲しい経験をされましたが、この経験は後の聖人の教えにも深く影響していきます。9歳という幼い年で比叡山に登られた聖人は、そこで20年という長い間、真摯な求道の日々を送られました。しかし、どれほど厳しい修行を重ねても、なかなか心の安らぎは得られませんでした。

法然上人との出遇い

聖人29歳の時、大きな転機が訪れます。比叡山を下りた聖人は、法然上人のもとを訪ね、そこで生涯を決定づける教えと出遇われました。それは「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えでした。それまで自力での救いを求め続けていた聖人にとって、この出遇いは、まさに人生の転換点となりました。

流罪から在家の生活へ

しかし、この念仏の教えは、当時の権力者たちから弾圧を受けます。承元元年(1207)、42歳の時、法然上人とその門弟たちは流罪に処せられました。聖人は越後(現在の新潟県)へ流されることとなります。そこで在家となられ、結婚もされました。一見、厳しい試練に見えたこの出来事も、実は大きな意味を持っていました。民衆と同じ目線で生活することで、より多くの人々の悩みや苦しみに触れることができたのです。

関東での教えの広がり

流罪が赦された後、聖人は関東へ移られます。常陸(現在の茨城県)や下野(現在の栃木県)などで、約20年にわたって教えを広められました。この時期、多くの人々との出会いがありました。農民から武士まで、身分を問わず、多くの人々に念仏の教えを伝えられたのです。ここでの経験は、後の『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)執筆にも大きな影響を与えることとなりました。

『教行信証』の執筆

52歳頃から、聖人は主著『教行信証』の執筆を始められます。この書物には、長年の求道と深い信仰に基づく教えが、余すところなく記されています。漢文で書かれた正式な名称は『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)といい、浄土真宗の教えの根本を示す重要な書物として、今日まで大切に受け継がれています。

晩年と京都での日々

晩年、聖人は京都に戻られました。多くの人々が教えを求めて訪れる中、手紙を書いたり、教えを説いたりしながら、静かな日々を送られます。建長5年(1263)、90歳という高齢で御往生されるまで、聖人は一貫して念仏の教えを説き続けられました。

親鸞聖人の教えとは

聖人の教えの中心は、「どなたでも平等に救われる」という点にあります。これは、生涯を通じて深められた、以下の三つの大切な教えとしてまとめることができます。

  1. 本願を信じること:阿弥陀如来様の本願(誓い)を信じることが、救いの根本です。自分の力だけでは限界がありますが、如来様のお慈悲により必ず救われると説かれました。
  2. 平等な救い:身分や学問、善い行いの有無に関係なく、誰もが救われると説かれました。これは、当時としては画期的な教えでした。
  3. お念仏の意味:「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀如来様への感謝のお念仏であると説かれました。難しい作法や決まりはなく、ありのままの姿で称えれば良いのです。

親鸞聖人は、このような教えを通じて、すべての人が救われる道を示されました。その教えは、800年以上の時を経た今でも、私たちの心に深く響いています。

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