いつでもどこでも
誰でもたすける行
それは念仏―竹中智秀 『浄土真宗の葬儀』
法語の意味
「いつでも、どこでも、誰でも」という言葉が示すように、お念仏は私たちの都合や状況を問わず、すべての人に開かれたみ教えです。南無阿弥陀仏のおはたらきには「場所」や「時間」も関係ありませんし、世間的な立場や年齢、性別、学歴などの制限もありません。阿弥陀さまの願いは、迷いの海をさまよう私たち一人ひとりを、必ず悟りの世界へ導こうという限りないお慈悲です。「念仏」を称えるとは、まさに「あなたが大切だよ」「あなたを見捨てない」という仏さまの呼び声をいただくことにほかなりません。
副住職のお話
まだまだ寒さの厳しい季節が続いてまいります。進学や就職の結果を待つ方も多く、期待と不安が入り混じる日々をお過ごしのことと存じます。変化の大きい時期は、心が落ち着かなかったり、不安を抱えたりするものです。そんな時にこそ、改めて「いつでどこでも 誰でもたすける行 それは念仏」の法語を味わってみたいと思います。
私たちは、自分の思いどおりにいかないことに直面するとき、大きな不安や焦りを感じます。「どうしてこんなことになったのだろう」「もっと上手くやれたはずなのに」と、過去を悔やんだり、周囲の環境を責めたりしてしまうこともあるでしょう。しかし、阿弥陀さまは、そんな不完全な私にこそ「南無阿弥陀仏」のみ教えを届けてくださっています。
例えば、「失敗ばかりで何もかも嫌になる」「自分には価値がないのではないか」と思い込んでしまうときでも、お念仏だけは変わることなく私に「大丈夫だよ、あなたこそが大切な存在なんだよ」と呼びかけてくださるのです。そこには条件や期限はありません。いつの時代であっても、どんな場所であっても、すべての人のことを等しく照らし、抱いてくださるのが阿弥陀さまのお働きだからです。
日常の中で、たとえば仕事でミスをしてしまったとき、あるいは家族や友人との関係がぎくしゃくしてしまったとき、人は「もうダメだ」と思い詰めがちです。「自分はなんて不器用なんだろう」「どうしてあの人はわかってくれないのだろう」と、つい自分や相手を責めてしまうこともあるかもしれません。
しかし、そんな自分を省みるきっかけこそが「南無阿弥陀仏」に込められているのです。うまくいかない現実の中でこそ、阿弥陀さまの「あなたを見捨てない」という温もりをいただくことができます。失敗や後悔、戸惑いも含め、私自身が抱えるすべての煩悩を見抜いたうえで、「どんなあなたでも、それでいいのだよ」と受けとめてくださるからこそ、お念仏は「いつでどこでも 誰でも」届く救いとなるのでしょう。
忙しい日々の中で、ほんの少しでもいいので手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と称えてみる。すると、不思議と心の奥に安心が広がり、やがて生きる力が湧いてくるものです。大きな悩みや悲しみを抱えるときほど、このお念仏によって「私は一人ではなかったのだ」と実感することができるでしょう。
おわりに
今月は、「いつでどこでも 誰でもたすける行 それは念仏」という法語をお味わいさせていただきました。お念仏には、「いつでも、どこでも、どんな私でも見捨てない」という阿弥陀さまの願いがこめられています。その声を聞き取り、いただいていくことで、思いがけない困難や不安に出会ったときにも、私たちは一歩ずつ前に進んでいく勇気を持てるのではないでしょうか。
次回も法語にちなむお話を通して、日々の暮らしに活かせる仏さまの教えを共に学んでまいりましょう。ぜひご家族皆様お誘い合わせのうえ、お寺にお参りください。みなさまのご参詣を心よりお待ち申し上げております。
※ この「今月の法語」は毎月更新いたします。