『名号』は
私たちの地獄に響く
阿弥陀のいのち―高史明『悲の海は深く』
法語の意味
「名号」とは、阿弥陀如来のお名前――「南無阿弥陀仏」のことです。私たちの煩悩が生み出す暗い闇や苦しみを「地獄」とたとえるならば、その深い闇をも照らし、呼び覚ましてくださるいのちこそが、阿弥陀さまの名号です。「名号」には、私たちを決して見放さない仏さまの限りないお慈悲とおはたらきが込められています。
副住職のお話
厳寒の季節が続いております。季節の移ろいは早いもので、日々の忙しさに追われていると、なかなか自分自身の心を省みる余裕がなくなりがちです。しかし、こんなときこそ改めて「『名号』は 私たちの地獄に響く 阿弥陀のいのち」の法語に耳を澄ませてみたいと思います。
私たちが生きているこの世は、一見豊かで便利に見えても、その裏には不安や孤独、嫉妬や怒りといった、さまざまな「心の闇」を抱えています。悩みや苦しみが深まり、「こんなに苦しいのなら、いっそ逃げ出したい」「もうどうにもならない」と思うことさえあるかもしれません。それは、まさに自分が生み出している「地獄」のような世界に沈んでいる姿と言えるでしょう。
ところが、そこに「南無阿弥陀仏」が響いてくるとき、私たちは思いもよらない大きな安心をいただきます。闇の中にいても、「あなたを決して見捨てない」という阿弥陀さまのはたらきは絶えることなく届いているのです。いのちの限りのない光が、私たちが自ら作り出してしまった心の地獄を破り、やさしく照らしてくださる――それが「名号」なのだ、とあらためて味わわされるのです。
たとえば、人間関係がうまくいかないときや、家族や友人とのコミュニケーションがすれ違うとき、「もう嫌だ」「相手を許せない」という思いがこじれてしまいがちです。その感情に振り回されているときは、まるで自分で自分の心を閉じ込めてしまっているような状態かもしれません。そんなときこそ、「南無阿弥陀仏」の響きに耳を傾けてみるのです。
「自分の思いどおりにならない相手」や、「何をしても報われない自分」。そこに向けられる阿弥陀さまのまなざしは、「そのままのあなたが私の願いの対象なのですよ」と言ってくれます。私たちが「地獄だ」と思うほどの苦しみの中にも、この阿弥陀さまのいのちが常に差し伸べられている――それに気づくとき、少しずつ心が軽くなるのではないでしょうか。
お念仏を称えていると、日常の何気ない場面でも、ふと優しい気持ちを取り戻したり、自分の心に余裕が生まれたりすることがあります。これは、「ああ、自分は独りきりだと思っていたけれど、そうではなかったのだ」という安心感を得られるからではないでしょうか。光が届けば、闇は自然に消え去るもの。阿弥陀さまの名号とは、そのように力強く、しかも限りなく温かなはたらきとして、私たちの人生に寄り添ってくださるのです。
おわりに
「『名号』は 私たちの地獄に響く 阿弥陀のいのち」という言葉には、私たち一人ひとりの心に潜む闇や不安を越えて、阿弥陀さまの光がどこまでも届いている事実が示されています。地獄のように苦しいときこそ、この名号の響きをいただいてみましょう。きっと、「あなたをそのまま救う」という仏さまの願いに包まれている自分を感じることができるはずです。
次回も、法語をもとにしたお話を通して、日常の中での気づきや安心を分かち合いたいと思います。皆様のご参詣を心よりお待ち申し上げております。
※ この「今月の法語」は毎月更新いたします。