この私のいのちに
いつも如来のいのちが通い続けている
―藤澤 量正『ほくほく生きる-九十歳の法話-』
法語の意味
私たちは日々の忙しさや心配ごとに追われ、自分のいのちを改めて見つめ直す機会はそう多くありません。しかし、私たちのいのちは単なる個人のものではなく、阿弥陀さま(如来)の限りないはたらきに支えられている存在です。
ちょうど、木の根が大地に深く広く張りめぐらされているように、私たち一人ひとりのいのちに如来のいのちが通い続け、私たちが気づこうと気づくまいと、絶えず育み、支えてくださっているのです。
副住職のお話
四月を迎え、新年度のスタートにともない環境が大きく変わる方も多いことでしょう。入学や就職、職場の異動など、新たな人間関係や生活リズムに戸惑いや不安を覚えることもあるかもしれません。
「この私のいのちにいつも如来のいのちが通い続けている」
私たちは、自分ががんばることで何とか日々を切り開いているように思いがちです。しかし本当は、見えないところで、たくさんのご縁や人々の支え、そして阿弥陀さまのはたらきに助けられているのではないでしょうか。何気なく過ごしているときは、その事実に気づかないかもしれません。むしろ、体調を崩したり、思わぬ困難に直面したりして初めて、「自分はひとりでは生きてこられなかったのだな」と実感する方も少なくないでしょう。
しかし、「南無阿弥陀仏」に込められた阿弥陀さまのいのちは、そんな私たちの日常にこそ届いています。「あなたのつらさや不安、苦しみも丸ごとわたし(阿弥陀)の光で包み込んでいる。だから、どうか安心して生きていってくださいね」という呼び声こそが、“如来のいのちの通い”だといえましう。
たとえば、学校や新しい職場で緊張の連続の日々を送っているとしましょう。とくに四月は、始業式や入社式など、一気に新しい出来事が押し寄せる季節です。慣れない場所で戸惑いながら、それでも一日一日を過ごしていくうちに、ふとした瞬間に人のやさしさや笑顔に触れて心がほっとすることがあるかもしれません。あるいは、自分が思ってもみなかった人物に助けられたり、逆に励ますつもりが励まされていたりする場面もあるでしょう。そうした「小さなやさしさ」の気づきの背景には、私たちが自力では測りきれない大きなはたらきがあります。
私たちのいのちには限界があり、ときに悩みや不安に押しつぶされそうになることもあります。そんな私たちこそが仏さまの救いの目当てです。私たちのいのちを仏さまのいのちが支え、光が射し込むようにあたためてくださるのです。だからこそ、「自分は一人で頑張っているようでも、実は多くの手に支えられていたのだな」と気づかされる瞬間があるのだと思います。
毎日が忙しく、自分のことだけで精一杯ということも多いでしょう。しかし「南無阿弥陀仏」と手を合わせる一瞬でも、私たちの中には確かに如来のいのちが通い続けている。そんな尊い事実を思い出すだけで、次の一歩を前向きに踏み出す力が湧いてくるのではないでしょうか。
おわりに
「この私のいのちにいつも如来のいのちが通い続けている」という四月の法語は、自分が何を成し遂げていようとも、また何もできずにいたとしても、阿弥陀さまのはたらきがすでに私と共にあって、限りなく支えてくださっているということを示しています。忙しい日常の合間でも、お念仏をお聞かせいただく中で、大切なことに気付かされます。
新しい季節、新しい環境の中で、私たちはさまざまな試行錯誤を繰り返していくことでしょう。その過程で疲れてしまったときに、この法語を思い出すことで、「私のこのいのちはひとりだけのものではなかったんだ」という心強さや安らぎを感じられることができるのです。
※ この「今月の法語」は毎月更新いたします。