はじめに
浄土真宗や浄土教の経典を読んでいると、阿弥陀仏の光を表す言葉として、
「不可称(ふかしょう)・不可説(ふかせつ)・不可思議光」という表現に出会うことがあります。
これは、阿弥陀仏の光明を紹介する際に、「言葉では称えきれず、説き尽くせず、思議(考察)することもできないほど無限かつ壮大だ」という意味を示すものです。
本記事では、浄土真宗における不可称・不可説・不可思議光が具体的に何を指し、私たちの信仰や日常生活にどのような安心感をもたらすのか解説します。
1. 不可称・不可説・不可思議とは?
「不可称・不可説・不可思議」とは、阿弥陀仏の光明が計り知れないことを示す三つの形容語です。
それぞれ以下のように理解されます。
- 不可称(ふかしょう):
- 言葉(名称)では表しきれないほど壮大である。
- 不可説(ふかせつ):
- 理論や説明(説くこと)では尽くしきれないほど深遠である。
- 不可思議(ふかしぎ):
- 人間の思考(思議)では推し量れないほど計り知れない。
これらは、阿弥陀仏の光明が人間の認識や言語表現を超えた、無限の慈悲と力を持つことを示しています。
2. なぜ「光」で表現されるのか?
阿弥陀仏は、無量光仏とも呼ばれるように、その光を強調して語られます。
「不可称・不可説・不可思議光」という言葉も、光こそが阿弥陀仏の象徴であり、すべての衆生を照らし救うはたらきのメタファーとして重要です。
- 光は境界を持たない:
- 光は固定的な形がなく、行き届く範囲に制限がありません。
これは、阿弥陀仏の慈悲があまねくすべての人に及ぶ様子を象徴する。
- 光は固定的な形がなく、行き届く範囲に制限がありません。
- 光は温かく包みこむ:
- 光によって照らされることで、**暗闇(苦悩)**が和らぎ、心が温かくなるイメージが、**慈悲の包容**を表す。
3. 親鸞聖人と不可称・不可説・不可思議光
親鸞聖人は、『教行信証』をはじめとする著作の中で、阿弥陀仏の光が計り知れない力を持つことをしばしば強調しました。
- 摂取不捨との関連:
- 「不可称・不可説・不可思議光」は摂取不捨(せっしゅふしゃ)の光と同じく、どんな人間も**見捨てない**という慈悲の力を示す。
- 悪人正機や凡夫入報との繋がり:
- 煩悩深重の凡夫(悪人)であっても、**この光に照らされる**ことで救われる、という悪人正機の考えと一致。
4. 現代においてこの光をどう捉えるか?
「不可称・不可説・不可思議光」は、阿弥陀仏の慈悲が私たちの想像や知性を超えて働くことを示すため、現在を生きる私たちにも大きな示唆を与えます。
- 自分の理解の限界を知る:
- 「すべてを理屈で解明できる」と思いがちな現代人にとって、**仏の慈悲は理論を超える**ものであると知ることは謙虚さを促す。
- 心の安らぎを得る:
- どんなに苦しみや絶望を感じても、**阿弥陀仏の光が全てを包む**という確信を持てれば、**深い安心**につながる。
5. まとめ
不可称・不可説・不可思議光は、阿弥陀仏の光が言葉にも尽くせず、思議しきれないほど無限であることを示す表現です。
– **不可称**:名称で称えきれない
– **不可説**:言葉で説き尽くせない
– **不可思議**:考え・思案では測りきれない
これらの言葉を通して私たちは、阿弥陀仏の慈悲が**私たちの理解**や**努力**を超えて働くことを知り、自力ではなく他力本願の救いへと導かれていきます。
その光の中にいると感じられれば、煩悩や悩みを抱える私たちでも、日々の生活に安らぎと喜びを見出すことができるのです。
参考資料
- 『観無量寿経』『阿弥陀経』などにおける阿弥陀仏の光の描写
- 親鸞聖人の『教行信証』における光明論
- 浄土真宗における他力本願と阿弥陀仏の慈悲の解説書
- 浄土真宗本願寺派 公式サイト
- 真宗大谷派(東本願寺) 公式サイト