はじめに
浄土真宗において、「自力」と「他力」は最も重要な概念のひとつです。
特に、「自力作善(じりきさぜん)」や「自力諸行(じりきしょぎょう)」という言葉は、阿弥陀仏の救いと人間の努力をどう捉えるかという点で、重要な役割を果たします。
しかし、一般的な意味での「努力」や「善行」とは異なる文脈で語られるため、混乱することもあるでしょう。
本記事では、「自力」と「他力」の違いを明確にし、浄土真宗における「自力作善」や「自力諸行」の正しい意味を解説します。
1. 「自力」と「他力」とは?
仏教では、悟りを得るために自分の努力(自力)で修行を積む方法と、仏の力(他力)に身を委ねる方法の二つが存在します。
これを踏まえ、浄土真宗における「自力」と「他力」の違いを整理すると、以下のようになります。
- 自力(じりき):
- 自分の力で善行を積み、修行を重ねて悟りを開こうとする姿勢。
- 「煩悩をなくせば悟れる」という発想に基づく。
- 他力(たりき):
- 阿弥陀仏の本願によって、すでに救われているという信仰。
- 「私たちは煩悩を捨てられないが、それでも阿弥陀仏の慈悲の中で救われる」という発想。
2. 「自力作善」とは?
「自力作善」は、「自分の力で善行を積み、悟りに至ろうとする考え方」を指します。
仏教の修行では、「良い行いを積めば、良い結果(悟り)が得られる」とする因果の法則がありますが、浄土真宗では「自力の善行では往生できない」と説かれます。
- 自力作善の問題点:
- 「自分が善行を積めば救われる」と考えること自体が、**自己中心的な執着**につながる。
- 「私は善いことをしているのだから、仏に救われるはずだ」という発想が、本願の救いを拒む結果になる。
3. 「自力諸行」とは?
「自力諸行」は、「自分の努力によってさまざまな修行や善行を積み、仏の世界へ至ろうとすること」を指します。
これは、浄土宗以前の仏教で一般的だった考え方です。
- 代表的な「自力諸行」:
- 座禅や瞑想を繰り返して煩悩を消す。
- 六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を実践して徳を積む。
- 浄土真宗での考え方:
- 親鸞聖人は、「どれだけ修行を積んでも、煩悩をなくせるわけではない」と考えた。
- むしろ、**「私の力では悟れない」と認めること**こそが、阿弥陀仏の救いを受け入れる契機となる。
4. 「他力」による救いとは?
浄土真宗では、「他力」とは阿弥陀仏の本願力であり、私たちの煩悩や善悪を超えて、すべての人を救う働きを示します。
- 他力本願とは?:
- 阿弥陀仏が「すべての衆生を救う」と誓われた第十八願のはたらきによって、念仏を称えるものはすでに救われている。
- 「南無阿弥陀仏」を称える理由:
- 念仏を称えることは、「私が救われるための行為」ではなく、「阿弥陀仏の救いを感謝して称えるもの」とされる。
5. 自力を捨てることで得られる安心
「自力」を捨てて「他力」に身を委ねることは、私たちに深い安心感をもたらします。
- 「頑張らなくても救われる」:
- 「自分はもっと善行を積まなければ」と思う必要がなく、すでに救われているという安心感を持てる。
- 「努力しなくてもいい」という意味ではない:
- 他力本願とは、「何もせずに救われる」ということではなく、「救われていることを知ったうえで、自然に念仏が出る」という境地を指す。
6. まとめ
浄土真宗における「自力」と「他力」の違いを理解すると、以下のことがわかります。
- 自力:
- 自分の修行や善行によって悟りを得ようとする努力。
- 「私は善行を積んでいるのだから救われるはずだ」という考えが、かえって仏の救いを拒むことにつながる。
- 他力:
- 阿弥陀仏の本願によって、すでに救われているという確信。
- 「南無阿弥陀仏」を称えることで、すでに仏の慈悲の中にいることを感じられる。
これを理解することで、私たちは「努力しなければならない」という重荷を手放し、「ありのままの自分がすでに救われている」という安心感の中で生きることができるのです。
参考資料
- 親鸞聖人の『教行信証』における自力と他力の解説
- 法然・親鸞の教えに基づく念仏信仰と修行についての解説書
- 浄土真宗本願寺派公式サイト
- 真宗大谷派(東本願寺)公式サイト