ご門徒の体験談:念仏に救われた私の人生

目次

はじめに

幼い頃から家に仏壇があり、両親も熱心にお寺の行事に参加する「門徒」の家庭で育った私ですが、正直言って子どもの頃は「仏教=お経やお寺など堅苦しいもの」というイメージしか持っていませんでした。ところが、社会人になりさまざまな苦難に直面したとき、いつの間にかすり減っていた自分の心を救ってくれたのが、まさに「念仏」だったのです。本記事では、一人の門徒としての私が、念仏にどのように出会い、どのように人生が変化していったのか、その体験を率直に語りたいと思います。


1. 子どもの頃の「なんとなく」の信仰

1-1. 法事やお寺行事への参加

小さい頃からご門徒の家ということで、家族はしょっちゅうお寺の報恩講や法要に参加していました。私も両親に連れられていくものの、長い読経や説教を退屈に感じ、正直「早く終わらないかな」と思っていた記憶があります。
それでも、子どもながらに「浄土真宗の行事は他の仏教と少し違うらしい」という漠然とした印象は持っていたように思います。具体的には「肉食妻帯が認められているらしい」とか「阿弥陀仏に身を任せる教え」とか。しかし当時の私には、ほとんどピンと来ていませんでした。

1-2. 家にある仏壇と念仏の声

わが家のお内仏(仏壇)には「南無阿弥陀仏」と書かれた名号があり、朝夕に両親が手を合わせ、時には声に出して「南無阿弥陀仏…」と称えていました。何気なく耳にするその声は、子どもの頃の私にとっては「日常風景」の一部でしかありませんでした。いつかは自分も受け継いでいくものなのかな、ぐらいの捉え方だったのです。


2. 社会人になってからの挫折と苦悩

2-1. 仕事での行き詰まり

大学を卒業し就職したものの、そこは激務と言われる業界で、入社して数年は休みなく働き詰めの日々。
最初のうちは体力も気力もあったので頑張れましたが、数年経つと仕事のミスも増え、上司から強い叱責を受けることも多くなり、やがてうつ状態に近い症状が出始めたのです。自分の能力不足を責め、職場の雰囲気にも馴染めず、何とか生き延びようとする中で「もう逃げたい」という思いばかりが募っていきました。

2-2. 孤立感と自己否定

周囲にも相談できず、「自分がダメだからだ」と強く思い込むようになりました。家族は心配していたようですが、「なんとかしなきゃ」という焦りから彼らにまで強く当たってしまい、家の中も気まずい雰囲気に。これまで仏教に親しんだつもりはなかったのに、不思議と「家にある仏壇の前で手を合わせたら楽になるかも…」とふと思う瞬間がありました。しかし、当時の自分はそれすら面倒と感じるほど追い詰められていたのです。


3. 念仏との再会:母のひと言が転機に

3-1. 「ただ、南無阿弥陀仏を称えてみたら?」

ある日、あまりにも私が暗い顔をしていたため、母が「辛いなら念仏を称えてごらんよ」と優しく声をかけてくれました。
正直「念仏で何が変わるの?」という思いもありましたが、それでも「何もしないよりはマシ」という気持ちで、試しに声を出して「南無阿弥陀仏…」と称えてみたのです。最初は照れくさく、勝手が分からずぎこちなかったのですが、不思議と少しずつ心が落ち着いていくのを感じました。

3-2. 他力本願の意味を実感

浄土真宗の教えでいう「他力本願」は、「自分の力ではどうにもならない」部分を阿弥陀仏に任せる、という考え方ですが、これが私にはとても大きな救いとなりました。「私だけでやらなくてもいい」「自力にこだわらなくても、大いなるはたらきが助けてくれる」と知ることで、仕事のプレッシャーや「失敗してはいけない」という強迫観念が少しずつ薄れ、日々の生活が楽になったのです。


4. 変わった私の生活と心

4-1. 毎朝の念仏習慣

念仏が心の支えになってくると、自然と「朝起きたら仏壇に手を合わせる」習慣が身についてきました。時間がないときはひと言「南無阿弥陀仏」ととなえるだけのときもありますが、それだけでも心がスッと落ち着くのを感じます。
この習慣のおかげで、以前は職場に行くのが憂鬱だったのに、「今日も何とかなるかもしれない」というポジティブな気持ちで家を出られるようになりました。

4-2. 自己否定から自己受容へ

前述のように、以前の私は自己否定感が強く、「自分はダメだ」と思うばかりでした。しかし、念仏を続けるうちに、「たとえ自分がダメでも、阿弥陀仏はそのまま受け止めてくださる」という信心が少しずつ芽生えてきたのです。
いわゆる「悪人正機」の教えを通じ、自分の弱さや欠点を完全に否定するのではなく、それも含めて「救われる」という発想に変わりました。これが私の精神的な安定に大きく寄与してくれたと思います。


5. 家族や周囲への影響

5-1. 両親への感謝

幼い頃からご門徒として私を育ててくれた両親に対して、今は感謝の気持ちが大きくなりました。昔は「なんでこんなにお寺行事が多いんだろう…」と苦々しく思っていましたが、結果として私自身が辛いときに念仏に助けられた事実があり、親が与えてくれた環境のありがたさを痛感しています。

5-2. 友人へのさりげない伝え方

私自身が念仏で救われたと実感してから、同僚や友人が悩んでいる様子を見ると、つい「念仏いいよ」と勧めたくなります。しかし、宗教色を強く出してしまうと引かれてしまう可能性もあるので(笑)、あくまで「私はこうして救われた」という個人の体験談としてさりげなく伝えるようにしています。すると意外にも「ちょっと興味あるかも」と言う友人が出てきたりして、気づけばお寺の法座に一緒に行くような仲間も増えました。


6. まとめ

ご門徒の体験談:念仏に救われた私の人生」と題して振り返ると、私にとって念仏は「いざというとき支えてくれる軸」になっていると感じます。子どもの頃は何となく当たり前だったお寺や仏壇が、大人になって心底行き詰まったときに、まさに“救いの綱”となりました。
浄土真宗の教えがこれほどまでに深く、かつ実践的なものだと気づいたのは、大きな転機です。念仏は誰にでも開かれた方法であり、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで阿弥陀仏の慈悲を感じられるかもしれません。「自力」で頑張るだけでなく、「他力に委ねる」という生き方が、多くの人の心を軽くすることを願っています。

【参考文献・おすすめ書籍】

  • 親鸞聖人 著 『教行信証』 (各種現代語訳)
  • 歎異抄:岩波文庫版など多数

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