はじめに
浄土真宗における阿弥陀如来の救いを表す言葉のひとつに、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)の光」があります。
この表現は、阿弥陀仏がすべての衆生を抱き取り、決して見捨てないという力強いイメージを示し、他力本願の核心でもある「阿弥陀仏のはたらき」を象徴する言葉といえます。
本記事では、摂取不捨の光が具体的に何を意味し、私たちの信仰や日常生活にどのような安心感をもたらすかについて解説します。
1. 摂取不捨(せっしゅふしゃ)とは何か
「摂取不捨」とは、阿弥陀仏がすべての衆生を摂取(包み込み、抱き取り)し、不捨(決して見捨てない)という意味です。
親鸞聖人は、この言葉を通じて阿弥陀仏の光が、どんな人であっても必ず救い取る慈悲の力を表現しました。
- 「摂取」:
- 光の中に衆生を取りこむイメージ。阿弥陀仏がそのままの姿で抱きかかえるように。
- 「不捨」:
- いかなる煩悩や罪深さがあろうとも、決して見放さない、捨てない、という強い慈悲。
2. 阿弥陀如来の光が示すこと
阿弥陀仏は「光の仏」ともいわれ、その光が衆生を照らすと説かれます。摂取不捨の光は、阿弥陀仏の光がすべての迷える者を包み込み、揺るぎない救いを与える姿を象徴します。
- 悪人正機との関連:
- 悪人こそ救われるという「悪人正機」の考え方と一致し、どんな人でもその光から外されることはない。
「救われない存在は一人もいない」という普遍的慈悲を具体化。
- 悪人こそ救われるという「悪人正機」の考え方と一致し、どんな人でもその光から外されることはない。
- 煩悩即菩提の裏付け:
- 自分の煩悩を抱えたままでも、阿弥陀仏の光に包まれることで救いが成り立つ、という安心感を与える。
3. なぜ「光」で表現するのか
仏教で仏を光として表現することは多々ありますが、阿弥陀仏の場合は特に「無量光仏」と呼ばれるように、光が無限でありすべてを照らすイメージが強調されます。
- 温かく包む象徴:
- 光は温かく、闇を照らす存在。阿弥陀仏の光は闇の中にある衆生を導き、安心させる。
- 境目のない普遍性:
- 光は境界がなく、行き届く範囲が無限。
それは、どんな人でも差別なく包み込む阿弥陀仏の慈悲を表すのにふさわしい。
- 光は境界がなく、行き届く範囲が無限。
4. 日常生活における摂取不捨の光の捉え方
「摂取不捨の光」という教えは、私たちの日常生活でどのような安心感をもたらすでしょうか。
- 自己肯定感の向上:
- 「自分なんてダメだ」と思う時でも、阿弥陀仏の光が決して見捨てないと知ることで、**自己否定**に陥らずに済む。
- 人間関係の悩み緩和:
- 人との衝突や失敗で落ち込んでも、「私はすでに仏の光に包まれている」と思えれば、**他者を許し、自分を許す**余裕が生まれる。
- 他力本願の実践:
- 何かに行き詰まったり、自分の力ではどうにもならないと感じたとき、「阿弥陀仏の光」を思い起こすことで、**焦り**や**不安**を軽減できる。
5. まとめ
摂取不捨の光は、阿弥陀仏の「決して見捨てない」という慈悲を、光という具体的なイメージで示した表現です。
– **摂取**:すべての衆生を包みこむ。
– **不捨**:決して見放さない。
この二つの言葉が合わさり、阿弥陀仏の本願による普遍的な救いがいかに揺るぎないかを表しています。
これを知ることで、**自分の力**や**善行**に自信がなくても、**仏の力**に守られているという安心と自己肯定を得られるのが、浄土真宗の教えの魅力といえるでしょう。
参考資料
- 親鸞聖人の『教行信証』や『歎異抄』における「摂取不捨」の引用
- 浄土真宗における他力本願と阿弥陀仏の光に関する解説書
- 浄土真宗本願寺派公式サイト
- 真宗大谷派(東本願寺)公式サイト